治部れんげさんの記事へ思うこと。

大好きな治部れんげさんの記事。
http://toyokeizai.net/articles/-/180156?display=b

記事への感想と、サイトに寄せられた感想への感想を書きます。


【助けを求めるにも、抽象化するにも、余力が大事?】


「助けてもらう側が自立して考えることが大事」
助けを求める方が自立している、というのは、難しいけどとても大切なことだなと思った。難しいけどね、難しいけど。
詳細は割愛するけど、パートナーシップ論においては、夫婦間での「察して」は無意味、という主張が多勢に思える。私の実体験でもそう思う。
それは脳の性差だったり、養育されてきた環境によるものだから、変えようとするのは本当に不毛。

で、助けを求めるために自立しているということについて考えてみた。

・自分の状況を細かく説明でき、
・困っていることとそのデメリットをはっきり提示することができ、
・手持ちのリソースを考慮した上で、
・相手の能力を推し量って負担の分配をすることが出来る。

という、非常に高度な行為なのだと思う。
勿論やってきたつもりだけど、多分、それぞれのフェーズで少しずつ、何かが足りなかったのかも知れない。

誰かに助けを求め、その手を取ってもらうには、そのための余力を自分に残す必要があるのだろうな。

「まだやれる…!」と思った時点では、もうすでに手遅れだと思うことにしよう。
いつか、この「助けを求めるフェーズ」を簡単にするツールか、サービスを作れたらいいなと思う。



コメントについて。

普段は読まないコメント欄だけど、この記事がとても気に入ったので、他の人とこの思いを分かち合いたい!と思いコメント欄を開き、愕然。
「環境に恵まれていた」
「綺麗事すぎて他の女性の役にたたない」
「周りの環境が整わずしては難しいように思える。」

うーん…どうしてこうなった。
異動がなかなか叶わなかった話、出産と転勤が重なった話は、苦労話ではないのだろうか。
これは森博嗣の著作『自由をつくる、自在に生きる』にヒントを得た考え方だけど、本質的な事は、抽象的にしか捉えられないらしい。
○○なら、△△しましょう!なんて具体例こそ、綺麗ごとに近い。○○の状況が自分のところにやって来ることなんて、私には多くなかった。
先人の轍に這いつくばって、自分に生かせそうな「抽象例」を探すのが、その探す過程を含めて、一番血肉になるのだと思う。
(912文字)

おしまい。