子供との距離

子供との距離について思うことがある。


妊娠してから子供がおしゃべりするようになる頃まで、私にはずっと、子供に対して「どこかから預かっている」という感覚があった。

 

ふとした瞬間に、我が家に子供がいる事に驚いたし、どこかから借りてきているのでは、と思う事も度々あった。
可愛くて可愛くて、自分の心臓ですらあげられると思っているのに、目の前にいる子供に対して親密さを感じきれていないような、不思議な気持ち。

 

その後、俳優の堺雅人さんが「子供は預かり物」と表現されているのを見て、とてもしっくりきた。

 


そう。私はこの子を、社会から、そしてこの子の人生から託されて、預かっている。
預かっているだけだから、いつか返さなければならない。
私の物ではない。

 


その後、子供が私達を拠り所とする態度を見せ始め、言葉でコミュニケーション取れるようになり、「我が家の一員」という感じが強くなってくると、だんだんとその不思議な気持ちは薄れていった。


けれど私は、「子供は他人」という気持ちを持ち続けたいと思っている。


私が子供の頃、「お受験」という言葉がブーム・批判の対象になった事があり、子供に受験を強要する親にはなりたくないな、と子供心に思った記憶がハッキリとある。
さらに大人になってから、私の性質として承認欲求が高く、それが暴走すれば「子供の成績は私の評価!」と思ってしまう可能性がある、と気付いたので、妊娠するだいぶ前から、子供と自分の評価は同一視しないように、と心に決めていた。

 

子供は他人。私に属するものではない。


もちろん、「将来、子供と本の話がしたい」とか「天体観測に興味を持ってくれたら嬉しい」などの願望はあり、それは育児のモチベーションでもあるので大切にしたいと思っている。
そのための工夫のアレコレについて、親が勝手にするぶんには良いのだと思う。
ただし、その結果について一喜一憂しないこと。

 

今の私にはまだ未踏だが、親の思い通りにならないことを、むしろ喜べるようになりたい。
それには、親が自分の人生について夢中になっていることも、とても大事なのかもしれない。

 

 

躊躇わず心臓を捧げられるくらい子供を愛しているが、育児は、人生の要素の一つに過ぎない。

(907文字)

 

おしまい。

治部れんげさんの記事へ思うこと。

大好きな治部れんげさんの記事。
http://toyokeizai.net/articles/-/180156?display=b

記事への感想と、サイトに寄せられた感想への感想を書きます。


【助けを求めるにも、抽象化するにも、余力が大事?】


「助けてもらう側が自立して考えることが大事」
助けを求める方が自立している、というのは、難しいけどとても大切なことだなと思った。難しいけどね、難しいけど。
詳細は割愛するけど、パートナーシップ論においては、夫婦間での「察して」は無意味、という主張が多勢に思える。私の実体験でもそう思う。
それは脳の性差だったり、養育されてきた環境によるものだから、変えようとするのは本当に不毛。

で、助けを求めるために自立しているということについて考えてみた。

・自分の状況を細かく説明でき、
・困っていることとそのデメリットをはっきり提示することができ、
・手持ちのリソースを考慮した上で、
・相手の能力を推し量って負担の分配をすることが出来る。

という、非常に高度な行為なのだと思う。
勿論やってきたつもりだけど、多分、それぞれのフェーズで少しずつ、何かが足りなかったのかも知れない。

誰かに助けを求め、その手を取ってもらうには、そのための余力を自分に残す必要があるのだろうな。

「まだやれる…!」と思った時点では、もうすでに手遅れだと思うことにしよう。
いつか、この「助けを求めるフェーズ」を簡単にするツールか、サービスを作れたらいいなと思う。



コメントについて。

普段は読まないコメント欄だけど、この記事がとても気に入ったので、他の人とこの思いを分かち合いたい!と思いコメント欄を開き、愕然。
「環境に恵まれていた」
「綺麗事すぎて他の女性の役にたたない」
「周りの環境が整わずしては難しいように思える。」

うーん…どうしてこうなった。
異動がなかなか叶わなかった話、出産と転勤が重なった話は、苦労話ではないのだろうか。
これは森博嗣の著作『自由をつくる、自在に生きる』にヒントを得た考え方だけど、本質的な事は、抽象的にしか捉えられないらしい。
○○なら、△△しましょう!なんて具体例こそ、綺麗ごとに近い。○○の状況が自分のところにやって来ることなんて、私には多くなかった。
先人の轍に這いつくばって、自分に生かせそうな「抽象例」を探すのが、その探す過程を含めて、一番血肉になるのだと思う。
(912文字)

おしまい。

1000文字で書けること。

はじめまして。
IT業界で働くワーママです。

日々考えること、つまり、夫婦関係と仕事と育児について、【1000文字】くらいで書いていこうと思います。
私、長く書くのは得意で、放っておくとあっという間5000文字くらい書いちゃうので、あえての1000文字縛りで、

本当に書きたいことを
誰にでも伝わる表現で

書けるようになる訓練をしていこうと思います!
では、レッツゴー!

情報リテラシー
最近、疑似科学信者と話をする機会がありました。今日は、「情報リテラシー」について書こうと思います。

私が疑似科学をバッサリ斬れるようになったキッカケは、「相関関係」と「因果関係」を理解したこと。
疑似科学の殆どは、相関関係だけを根拠に説を組み立てていると感じます。
例えば、"牛乳有害論"の根拠の一つ
 「牛乳の消費量が多い国では骨折が多い」
ですが、これは相関関係であって因果関係ではありません。
仕事柄、何を進めるにも根拠を求める日々ですが、それでも、文系出身の私が相関関係と因果関係を理解したのは30過ぎでした。

情報リテラシー」というと、IT活用のスキルと混同されている事が多いように感じますが、そうではなく、発信源を問わず受け取った情報に対して、自分でジャッジを下す能力である、ということをもっと声を大にして言いたいな、と思います。
書籍にも、疑似科学はたくさんありますしね。

情報にジャッジを下す際に、今の私が重要だと思っている事は以下の2つ。
・この情報は、誰の収入源になっているか
・この情報の、エビデンスレベルはどうなのか

先日の疑似科学信者は、オーガニック食材のECサイトへ記事を寄稿していました。その記事を読んで健康不安を煽られた人が、きっとそこでオーガニックでマクロビオティックな甘味料を買うのでしょう。
つまり、その記事の収入源はECサイトです。記事と売上の間に直接的な金銭授受が発生していなくても、遠因であるならば収入源として考えます。
これはただの体感ですが、発する人間と受け取る人間の距離が遠いほど、収入源としての距離も遠くなり、「都合の良い情報」を発するメリットも薄れていく気がします。

エビデンスレベルについては私もまだまだ勉強の途上ですが、「この情報、エビデンスは?」と問う姿勢が有るだけでも、役に立つと思います。
ウェブメディアの広がりによって、一個人が簡単に『筆者』になれる昨今、たった一人の経験を、あたかも普遍的なことの様に書く記事が多いと感じています。特に、育児のこと。
経験の共有は有意義な事だと考えていますが、一個人の経験は、エビデンスレベルは低いです。
全ての情報にエビデンスを求めることは出来ませんが、受け手の持つエビデンスレベルという概念は、膨大な情報のどれを活かしどれを無視するかという、取捨選択のポラリスになるツールだと思います。
(978文字)

おしまい。